カテゴリ: 昭和39年

役場職員の空きが出来たため、試験を受けに行く。地元で働けるし、公務員だし、合格との知らせに、母ちゃんも安心したようだ。


昭和39年10月1日

今日は、初出勤である。午前10時に役場に行くと、友達2人も合格して来ていた。

10時30分、町長室で役場職員任命辞令を受けた。
給料は9,500円であることを知る。給料が、これまでで一番安い額でがっかりした。

所属は建設課。課長、係長、直接の上司にあいさつをする。
この日は、庁舎内外へのあいさつ回りを行い、建設課で5時まで勤務し帰宅する。

この時期の常葉町所有の車は、出先を含め4台しかく、役場用のトラック及びライトパンの2台、直営診療所の乗用車が1台、そして消防自動車1台であった。

ぼくが仕事で運転する車両は、ニッサンジュニアとニッサンセドリックを担当し、用務に応じ運転するのである。ニッサンジュニアを使う時は、失業対策事業で雇っている作業員の送迎や道路資材の運搬等を行う時である。

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↑運転手としてどこかに誰かを乗せていったのでしょう。


ぼくは、事務を行う傍ら三役(町長、助役、各課長)等が車で出かける時のライトバンの運転や測量の手伝い等を行うことになった。
車が少ない時は、トラックを乗用車代わりにする。議会議員が出張する時には、トラックの荷台に椅子を両側に取り付け、幌屋根を掛け数人を乗せていくのであった。

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↑建設課の旅行


この職場に父は、定年まで勤めることになります。

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↑男、四人珍道中!?(残念ながら、東北道拾次の写真ではありません。)
     

昭和39年8月29日

3日間休暇ができた。男四人でドライブに出かけることにする。
友達から普通車(日野コンテッサ)を借り、運転手はぼくである。

午後1時頃出発、みんなで相談した行き先は裏磐梯高原でのキャンプである。

しかし、朝からぽつぽつと雨が降っており、郡山郡山へ着くとどしゃ降りになってしまった。
キャンプは無理だということで、話し合い、予定を変更して日光へ行ってみることにする。

この時期の国道4号線はすべて砂利道であった。そのため、スピードは出せない。ゆっくり走行したため、到着は、明朝30日の午前8時頃であった。
中禅寺湖で朝食を済ませる。せっかく来たのだからと友人の提案で東京に向かうことにした。


次の日、8月31日の朝、東京都北区に着く。
東京都北区赤羽に住むぼくの親戚の家を訪れ、キャンプ用に持ってきた白米を出して、おにぎりをにぎってもらう。
4人でおにぎりを持って、東京見物をすることにした。
車で銀座有楽町を走り、浅草へいく。

国際座で観劇をしながらおにぎりで夕食をすませる。


夕方になったが泊まる所がない。友達の姉ちゃんが嫁いでいるとのことで、江東区砂町へ向った。
午後11時頃、着いたのだが、初めてきた土地であったので、家が見つからない。

もう遅いので、明日探そうと言うことになり、住宅団地の空き地に車を止め、テントを被せて4人で寝ることにした。

9月に近いとはいえ、東京は、むし暑い。暑くて眠れないと外に出てみると、近くに直径1メートル位のヒューム管が積んであった。4人でその中に入って寝ることにした。みんなで蚊に刺されながら、熟睡することができず、一晩をすごした。


翌朝1日、8時頃出発する。友達の姉ちゃんの家を探すと、野宿した場所と目と鼻の先であった。
4人で笑ってしまった。
姉ちゃんちで朝食をご馳走になり、上野へ向かう。そして、上野動物園を見学した。

次に、港区の東京タワーに行くと駐車場が無かった。かわりばんこに見学し、残りは車に待機することにした。




時の経つのも忘れ、遊んでいるうち、休みの最終日であることに気づいた。



あわてて国道6号を探し、福島へ向かった。明日からは仕事なので、朝までには着かなければならない。ぼくは、焦りながら運転した。


2日の午前2時頃、やっと家まで5km位までになった。


後もう少しで家だと、安心したのか、つい居眠りしてしまう。


ないように、助手席の友達と話をしながら運転していたのだが…。あんぼ寺(現在のシミズストアの前)で右側の用水溝に脱輪してしまった…。

4人で車を引き上げようとたが思うようにいかない。それぞれが各家に連絡した。そのうちの2人の家の人が来てくれ、やっと引きあげた。午前3時半頃になってしまった。


そのまま車を貸してくれた友人宅まで行き、4人でバケツで水を汲んで、泥だらけの車の洗車を行い、持ち主に返して解散した。すでに午前7時であった。


この日ぼくは、一睡もしないで商工会に出勤した。




純朴な青年達の楽しみですよね。

行動の一つ一つから、今の青年にはないすがすがしさを感じ、4人の関係や話し合っている姿を想像すると、とてもほほえましく思えます。

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          ↑なかよし3人組

昭和39年6月23日 

魚屋のおじちゃんのから、
「7月から町の商工会に勤めないか。月給は1万円。」
との話がある。

給料がぐんと減るので、悩む。

母に相談すると
「月給が安くても、近い方が良い。」
と言われ勤務を決めた。


郡山の金物店の旦那さんに事情を話し、6月末(通算9ケ月間)で退職することで了承をいただく。


昭和39年7月1日

町の商工会に初出勤する。勤務時間は、午前8時30分から午後5時まで。職員は、ぼくを含め3人。

仕事の内容は、事務である。初めての事務の仕事に、戸惑いがあるが、なんとかなりそうだ。
ぼくの仕事は、文書の収受、会員名簿の整理、会費の徴収等が主な仕事であった。

この時期の文書作成はガリ板刷りであった。

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私の記憶が正しければ、小学校の頃、まだ“ガリ版”は存在した…。
田舎の学校だったから、放課後、ガリガリ先生がやっているのをおもしろくながめていたはず。


放課後は、毎日、校庭でのびのび遊んでいたな…。
先生の家にみんなで歩いて行ったけな…。


竹の根っこみたいな棒で、宿題忘れた子は、たたかれてたな~。
たたかれたくて、わざと宿題忘れたことがある。

それが、すごく、すごく痛くて、後悔したっけな…。


【したっけな】つながりですが…。このフレーズがっ♪~。
みなさん、覚えてますか?“卒業式にうたった歌”

やさしっかった先生を~♪♪   おこらせもしたっけな~♪

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昭和39年4月1日 

今日から、消防団に入団する。所属は十分団(機動分団)への所属であるが、金物屋への勤務をしながら消防活動を行うのである。町の若者は、みな入団した。


町の商工会主催で恒例の桜まつり仮装行列が開催された。

ぼくは、商工会青年部にも所属していたので、町の代表で行列参加を要請された。

ぼくたちの商店街は、女装にて参加した。
各地域単位の商店街と競合しながら市街地を練り歩いた。

人生初の女装で、恥ずかしさもあったが、沿道の大勢の見物客から拍手喝さいを浴びた。




最近は、“仮装行列”という言葉さえ聞かなくなりました。

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  ↑ ぼくの趣味の写真(親戚)


昭和39年1月1日 

ぼくは、昭和39年の新年にあたり、今年の抱負を次のように掲げた。


1.毎夜必ず30分~60分間はペン字の練習を行うこと。


2.無駄遣いはしないこと。


3.仕事終了後真っ直ぐ家に帰り、家の仕事を一つは行うこと。


4.毎日午後11時までに寝ること。


今年は以上の事柄を必ず、実行するよう誓った…。


そういえば父さん、私が小さい頃も、毎晩習字やペン字の練習をしていたな。
父さん「字が上手でいいな~。」なんて思ってました。
高校へ行かれなかった分、取り返していたのかな?
やる気さえあれば、いつでも勉強できるんですね。



父さんの日記のこの部分を見て、
何て昔の青年は、純粋で素朴なんだろう…。
今、こんなことを思う21才は、いるのだろうか?


自分はどうだったろうか?

今の時代、誰の世話にもならず、勝手に育ったかのように思い、
親は、なんでもしてくれる、されるのが当たり前って思っている若者が多いかも…


…という私も、働いてみて初めて、
本当にお金を稼ぐことの
生活することの
大変さを知りました…。

親と同じことできるかな…?なんだか、自信がありません。

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