カテゴリ: 実家での生活 昭和38年~

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昭和38年10月6日 

郡山職業安定所に相談に行き、求人情報から郡山市内さくら通りの金物店の従業員募集を見て、早速店を訪ねた。月給13,000円と交通費も支給するという。

今日から金物店勤務を始める。
仕事は、金物販売員と魔法瓶修理である。行動範囲は郡山市、二本松市、白河市周辺の金物店を定期的に訪問し、修理の必要なマホー瓶を集め、修理後配達するのだ。

魔法瓶は真空の薄いガラスなので倒すと壊れやすく、メーカーも数多い。サイズもばらばらで、大変である。    

ぼくは、修理が完了したマホー瓶を軽自動車で配達するのだが、車運転はバイクの免許取得後、初めてのために車幅感覚がつかめず、最初は恐る恐る車の運転をしていた。

船引~郡山間の列車定期券代1ケ月1000円、常葉~船引間バスの1ヶ月の定期代1.080円。
食事は一食100円~130円程度、たばこ1個が50円程度であった。

10月30日は初の給料日だが、勤務日数が少なく通勤手当含め10,500円だった。ぼくは、普通自動車の免許がないと商売にならないと考え、とりあえず給料全てを母に渡し、普通免許取得の許可をもらった。

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↑母ちゃんと近所の時計屋さん


昭和38年10月1日

じいちゃんが亡くなった今、ぼくが大黒柱とならなければならない。


ぼくの家では、町のはずれに2反歩ほどの畑と借地の桐畑を持っていた。
この畑には、下駄の材料となる桐の木を植え、その間に小麦や豆を栽培していた。
さらに、母が野菜栽培をしている二畝歩程の畑とじいちゃんが若い頃に炭焼きをするため買ったと言う杉山も持っていた。

わが家の男手は自分一人。忙しくとも山や畑の手入れをしなければならない。ぼくは、下駄の販売・行商を行いながら、一人で山や畑の手入れを行うこととなる。
頑張っても頑張っても、出稼ぎに出ていたときより、収入は少ない。出稼ぎは、16時間労働ときつかったが、楽しみもあった。



これまで、ぼくは、色々な仕事を体験してきた。
大勢の大人達とも触れ合いながら、商売も体験した。

商売は良い時と悪い時の差が極端で、安定性が無いと思うようになった。


ぼくは、安定性のある職業が一番だと確信し、母に内緒で新たな職業を求め、郡山市の職業安定所に相談に行ってみることにした。

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今思うと、今日は、ぼくにそばにいて欲しいと言ったのかもしれない…。


じいちゃんが、

今日、午後1時40分に息を引き取ったそうである。

母ちゃんたちが、ぼくを方々探したが、連絡がつかなかったとのことであった。




自分の父親代わりになって厳しく育ててくれたじいちゃん

火事の時も家を守ろうと頑張ったじいちゃん

自分の親方になり、立ち木の伐採から下駄作りの完成まで教えてくれたじいちゃん

バイクを買ってくれたじいちゃん

ぼくが「嫁をとるまでは頑張る。」と言っていたじいちゃん

ぼくの一番大好きな爺ちゃん

77歳をもってこの世を去ってしまった。




この日、ぼくは、じいちゃんが息を引き取る時にそばにいてやれなかったことが残念であり、空しい思いと悲しさで一夜を過ごした。

「じいちゃん、目の前に立ちふさがっている壁をぶち破っても一生懸命人生を進んで行くから安心して天国に行ってね。」と心の中で叫んでいた。


じいちゃんの葬儀を7日に行うことに決まり、6日から隣組の人や親戚の方が大勢手伝いに来てくれた。ぼくは、葬儀の当日、祭壇の前に座り、焼香客の皆さんにあいさつをしていた。長い長い時間だった。

昭和38年8月5日 

今日も行商の仕事に行くつもりで準備をしていた。
すると、じいちゃんがぼくを呼んでいると、母から呼ばれた。

「なんだろう?」悪いことは考えないようにはしているが、やはり心配である。
じいちゃんは、日増しに容態が悪くなっていたので、ぼくは、なるべくじいちゃんの所に行ったり、話しかけたりしていた。

ぼくは、急いで二階の爺ちゃんの傍に行った。「よかった。いつもより元気だ」

じいちゃんは、一生懸命ぼくに何か話そうとしていた。しかし、ぼくには、何を言っているのか聞き取れなかった。
そして、出発の予定の時間になってしまった。

この日は、祖父の容態がいつもより良いようであるので、久しく行っていない双葉郡の川内村へ行商に出かけることにした。ぼくは、じいちゃんの耳元で行き先を告げ、バイクに乗って出発した。



バイクの運転中、行商の合間もじいちゃんが今朝、ぼくに何を言おうとしていたのか気になって仕方がなかった。しかし、今朝はいつもより元気だったので、帰ってからもう一度話しかけて、ゆっくり話を聞いてみることにした。

母ちゃんが作ってくれたおにぎりを食べ、丸一日行商をして午後8時頃帰宅した。
家に着くと、店の前に親戚の兄ちゃんのバイクが止まっていた。

家に入ると、親戚の人達が大勢集まっていた。

昭和38年7月5日 

我が家の敷地が狭いため、風呂を造る余裕が無かった。
これまでは、近所の家の風呂を借りていたため、寝たきりになったじいちゃんは、しばらく風呂につかっていない。

ぼくは、じいちゃんを家の風呂につからせてやりたいと思うようになる。
地主から土地を約2坪借り、自宅裏に風呂場を造ることにした。

大工さんに風呂場建物建築を依頼した。住宅から少し離れていて、外に出なければならなく、入り口に戸が無い風呂であるが、わが家に待望の風呂が完成した。

これからは、自宅で入れるようになる。

しかし、この頃祖父の病状が日増しに悪くなってきていた。風呂に入れてやることができない。
医者からも
「長くない。」
と言われた。今日は、親戚に祖父の病状を知らせた。

ぼくが帰ってきてからも、爺ちゃんの様態は日増しに元気がなくなっている。
ぼくらの話し声も良く聞き取れないようになっており、心配の毎日であった。

しかし、ぼくはお盆も近いため、看病の合間を見ては下駄の行商に出ていた。

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