カテゴリ: 出稼ぎ昭和38年

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  ↑東京から遊びに来た親戚 憧れの車

昭和38年11月10日

ぼくは、仕事にも必要だということで、普通免許を取得するために郡山市の自動車学校に入学した。

金物店勤務終了後に練習をして、最終列車で帰る。
家に着くのは、毎日午後10時頃であった。次の朝は、8時までに出勤なので、6時半には家を出なければならないため、大変であった。

12月13日は、実地試験を受ける。

試験番号は151番。試験コースは、一番苦手な3のBコースである。

八の字で脱輪したり、坂道発進でエンストするおそれがある。
緊張しながら順番を待ち、自分の番が来た。

試験官が助手席に、後ろには次の受試験が乗っていたので、受験中は緊張の連続であった。


翌日、試験の結果が気になり、自動車学校に電話で確認する。
すると、【合格】とのこと。嬉しくて飛び上がるような心境であった。

昭和38年7月2日

丸米自転車での仕事は6ケ月の約束であったため、6月末で仕事を終わった。

洋服などの荷物を運送会社に預け、ぼくは、バイクで我が家に帰ることにした。

これで、やっとじいちゃんに会える…。
じいちゃんの容態は、どうだろう。
かえったら、母ちゃんの仕事を手伝おうなどと考えていた。

この間、一時帰宅した同僚が、わが家から手紙を預かってきてくれた。

その手紙には、近所の友達のお父さんが入院したこと、妹の学校こと、じいちゃんが歩けなくなったこと、母ちゃんが仕事をしていることなどが書かれており、一刻も早く帰りたい心境だった。

ぼくは、少しでも早く着くように、休みを少なくして、国道4号線をバイクで走った。
家に着いたのは、夜中だった。

7月以降、じいちゃんは、完全に寝たきり状態になっていた。
連日、親戚や知人の方が見舞いに訪れるようになっていった。
次の朝、じいちゃんに話しかけると、ぼくが帰ってきたのが分かり、喜んでいた。

最後の給料袋をじいちゃんに全部わたした。
じいちゃんは、それをつかんで、目をつぶって寝てしまった。

昭和38年5月7日 

祖父が胃がんをわずらい、自宅で養生しているとの知らせが入る。

ぼくが東京で働きにでた頃から、祖父が夕方になると
「疲れた。」
と言って寝ることが多くなったと言う。

病院で診断の結果、胃がんと診断された。歩けないため、先生の往診を受けているとのことであった。

このような中で、母は祖父の看病をしながら、家計を維持するため、一人でげた店の営業を続けていた。

ぼくは、心配しながらも妹の学費と祖父の医療費、実家の生活費のため、働くしかなかった。
じいちゃんに会いたいのは、やまやまだが、休みを取ったのでは、日当がでない。
出稼ぎも後一月なので、「もうすぐ帰ることができる。」と思いながら、頑張ることにする。

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↑ パノラマ写真にあこがれてつなげたらしい…(もしかして、父さんパノラマのはしり!?)

昭和38年4月13日 

今日は、午前中で仕事が終了した。
いつものように、バイクに同僚を乗せ、荒川に向かう途中のことであった。

前方に自転車の女性がいた。路肩の舗装の境目で転びそうに運転していた。
危ないので、ブレーキをかけて停車したのだが、なぜか女性がバイク側に倒れてきた。

大丈夫かとたずねると、「自分の不注意で転んだ。」と言ったのだが、その女性が手に擦り傷を負っていたため、ぼくがひいたのではないが、バイクの方にたおれてきたことは間違いがないので、バイクの後ろに女性を乗せた。
同僚は、その女性の自転車を運転して、ぼくのバイクの後をついてきた。

近くの病院に連れてい行き、手当てを受けている時、いきなりその女性は、

「バイクに跳ねられた。」
と言いだした。

「自分で転んだのにもかかわららず、酷いことを言うなあ。」と思った。ぼくは、「危ない。」と思って止まったし、病院にまで連れてきたのだから、

「最初は、『自分が不注意で転んだ。』と言っていただろう。」
と強く言うと、観念したのか、

「私が悪かった。」
と誤ってくれた。乗りかった船、手当てを終えた女性を家まで送った。その時も同僚は、自転車でついてくることとなる。

災難なのは、自転車でバイクの後を着いてきた同僚かもしれない。
今日が、人生初の交通事故体験になってしまった。

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昭和38年2月28日

今日は、丸米製作所で働いて以来、2回目の給料日である。
給料は15,920円であった。その中から、13,000円を家に送った。

その後も毎月の給料は、大体16,000円から18,000円程度で、その内から13,000円を毎月家に送っていた。

たまの日曜日は、会社の友達をバイクのうしろに乗せ、川崎の姉ちゃんの家や羽田空港、新宿御苑や多摩川などをドライブしていた。

時には、村山貯水池、狭山湖、ユネスコ村などを訪れ、つかの間の休みを楽しんでいた。

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