カテゴリ: 出稼ぎ昭和36年

昭和36年12月2日

大阪駅から夜行列車に乗り、午前9時21分、東京都江東区清澄町へ到着した。
清澄町の建設会社を訪れ、土木仕事をすることになった。仕事は、一般土木工事であり、製造工場内の機械取付けの基礎コンクリート打設が主である。
作業時間は、殆どが夜間の突貫工事ばかりである。昼間に睡眠をとっておき、夜になると作業を繰り返す毎日であった。

毎日、もぐらのような生活を送りながら、努めた。12月31日の午前中まで作業を行い、正月は実家で過ごすため、帰宅の路についた。

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昭和36年10月24日 

兵庫県神戸市へ2回目の出稼ぎに出発することになった。前回の出稼ぎのこともあり、遠くてもみんなが行きたがる出稼ぎであった。今回は、1日労働賃金1,000円、もちろん実質労働分である。約1ヶ月であるので、20日働けば、2万円は見込める。このころ、地元の役場につとめても1ヶ月3~4千円しか稼げなかったので、破格の賃金であった。

今回は、現場に到着するとすぐに作業であった。作業内容は前と同じであるが、今回の作業条件は厳しかった。24時間連続作業を行い、8時間の休みをもらう。週に1回と現場の都合で休みがあるが、この連続の作業で、11月30日まで働いた。自分に4千円残し、家には1万3千円仕送りした。

12月1日
先輩と一緒に東京に向かったが、途中大阪駅で下車して、大阪市内観光をしようと難波を歩いた。ここのネオンが美しく、非常に印象的であった。

そして、神戸の現場で話をつけておいた、次の出稼ぎ場所の東京都にまっすぐ向かう。

昭和36年10月8日

ぼくは、2度目の出稼ぎが決まった。兵庫県神戸市である。
福島県郡山駅から夜行列車で、上野駅には翌朝4時30分到着した。山手線で東京へ向かう途中、つい眠ってしまい、乗り越す。山手線をもう一周りしていたところ、やはり一緒の仲間が乗り越していた。二人で東京駅から東海道線に乗った。神戸駅には、午後10時30分についた。

働く場所は、神戸市青合区の八幡建設内の現場、飯場の二階が宿舎になっていた。

10月10日 
朝作業服が支給される。午前中は現場案内を受けたが、この日は現場の都合で作業ができないと1日分の賃金500円支給を受け、解散となった。思わぬところで、休みになったので、仕事仲間たちで大阪へ行き、大阪城見学をした。
10月11日
今日も前日と同じく休みと言われ、賃金を貰い自由行動である。神戸三之宮市内を歩き見学後、映画を見る。今回の職場は、あたりだった。何もしないのに、賃金だけもらえる。
10月12日
今日もまた、休み。神戸市内の港川神社や港川公園を歩き1日を過ごした。
10月13日
今日もまた、作業は休み。だが、さすがに悪いと思い、現場片付けを手伝った。午後2時から自由行動になったため、三之宮市内見学をした。
10月14日
いよいよ今日から、作業の練習に入った。現場は、大きなコンクリート製のサイロを造る建設工事である。ぼくらの仕事は、型枠に生コンクリートを詰め、棒で突くのである。コンクリートを詰め終わると、作業員全員が共に掛け声をかけながらジャッキを回して全体の型枠を巻き上げる、それを繰り返して行うのである。ずっと休みだった分を取り返すためか、この日は、一睡もせず2日間連続の徹夜作業となる。

10月16日
午後からの仕事ということで、午前中は休みになった。神戸観光もしつくしたため、仲間と姫路まで足をのばすことにした。姫路城は別名白鷺城とも呼ばれ、昔のまま保存されていた。この日は、午後3時から作業を開始して翌日の夜まで続け、すべての出稼ぎの仕事が終わった。翌18日は、一日睡眠をとる。
10月19日
夜行列車で帰宅の路についた。途中、東京の上野アメ横商店街を見学した。さすがに、自分のすきなものは、買えなかった。上野駅から夜行列車で郡山へ向かい、20日午前5時40分自宅に到着した。

祖父と母には、休みの日にもらった賃金の話はしなかった。ぼくは、今回の出稼ぎで、働くのは辛いが、楽しさも感じた。今までに見たこともなかったものを見たり、聞いたりできる。神戸あたりの出稼ぎ口をまたさがそうと思った。

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昭和36年5月1日

ぼくは、初めての出稼ぎから戻り、もとの生活に戻った。
また、下駄つくり、露天商、畑の手入れ、納豆売り等を続ける毎日になった。

下駄つくりの親方は祖父であるが、祖父は気が短かい性格のため、ちょっとした失敗でもものすごい勢いで叱る。

親方に叱られた時は、月給がもらえるサラリーマンが凄くうらやましいと思った。厳しい条件だが、出稼ぎならば、金が手に入る。家を離れられる。

祖父や母にばれないように、出稼ぎの口をさがす毎日となる。

昭和36年2月⒛日 18才

ぼくの初出稼ぎ先は、いわき市小名浜港近くの日本窒素と言う会社である。
学校の一級先輩と共に磐越東線の列車に乗り、平駅(現在のいわき駅)へ、平駅から臨海鉄道にて小名浜駅下車、歩いて日本窒素の会社に行き、宿舎に案内された。

翌日から仕事を始める。
作業内容は配合飼料(農業肥料)の袋詰めである。
機械のホッパーから流れ出る飼料(粒子)を袋に詰めるのである。この作業は、通常8時間勤務の3交代制だった。8時間働いて、賃金は月8千円である。

この賃金では、約束の月1万円を送ることができない。そのため、ぼくは、一日16時間働くことにした。仕事は夜勤で、毎日午後3時から翌朝の午前7時まで働いた。1万6千円稼いで、1万円を仕送りにして、6千円は、1ヶ月分の食費や貯金、汽車賃に充てた。

したがって、自分の自由時間は8時間しかない。残りの8時間で食事、風呂、就寝をこなさなければならず、遊ぶ余裕等は全然ない状態であった。

しかし、このような中でも週1日だけは休みがあり、休日には隣の湯本町の親戚宅に遊びに訪れ、息抜きをさせてもらっていた。

この出稼ぎは、4月30日までの2ケ月で終わり、自宅に戻った。

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