カテゴリ: 出稼ぎの条件

昭和36年

商売が思うようにいかないことから、出稼ぎに出ることを考えはじめていた。
友達から日銭の入る出稼ぎの話を聞き、祖父と母に出稼ぎに行きたいと相談した。
はじめは、反対されたが、説得するうちに

「お前は長男だから家族を養う義務がある。そのため、出稼ぎに出るなら条件がある。」

ということで条件がだされた。
その条件は、

_箸鮟个篤くなら、毎月1万円(今で言うサラリーマンの1ケ月分以上の給料に相当)を必ず家に送ること。
長期間の出稼ぎは禁止。数ヶ月で必ず帰ること。
であった。

ぼくは、中学卒業当時から町外に働きに出たいと考えていたため、厳しい条件をのんで、出稼ぎすることを決意。しかし、この時期は若者が1ケ月勤めても、町内なら3~4千円程度の月給の時であり、月1万円を送るのは非常に困難な条件であった。
ぼくは、家を出たい一心で厳しい条件をのんだのであった。

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昭和35年11月9日~26日 

ぼくは、祖父と共に東京へ旅行をすることになった。
上京は中学3年の修学旅行以来(旅行から帰った日に家も町も全部なくなってしまったあの日)のことである。

訪問先は親戚の東京都と川崎の親戚宅であった。
親戚の皆さんの案内により、東京都内観光や箱根スカイライン、芦ノ湖観光等をし、伊豆の熱海温泉に宿泊をした。

帰りに東京都台東区浅草の履物問屋街に回り、いろいろな履き物の流行を見てくる。

その後、池袋に寄り、ぼくは、祖父に空気銃を買ってもらった。空気銃を持ち、喜んで家に帰ると、空気銃のことで母にすごく叱られてしまった。

戦争を思い出したのか…、無駄遣いを怒ったのか…ぼくには、理解できなかった。この旅行で、出稼ぎへの思いが一層深まった。

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昭和34年 ぼくは17歳、妹は13歳。

年末から正月にかけては、兄弟でいつも友達の家にて、夜明しでトランプや【みかん吊り】(みかんの皮をむきバラバラにして針に糸をつけて刺し、吊り上げた者が食べることができる)等をして遊んでいた。
この時期は、各家庭が経済的に厳しく、蜜柑を丸ごと食べることはできなかったため、一気に食べてしまわないよう工夫された遊びだった。

この頃、映画が若者の唯一の楽しみであった。常葉町の劇場と公開堂の2つの映画館が客引き合戦をしていた。入場料は10円~20円のため常に満員、遅いと席が無く立ち見の状態だった。

世の中は、アメリカの文化が入り込んできた。洋服や靴が一般にも出回り、下駄の需要が減ってきていた。ぼくは、商業に幻滅感を感じていた。

これまでいろんな商売をして来たが、どの仕事も満足する収入には結び付かなかったので、「どこかに勤め、安定した収入を得たい。」と思うようになった。

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