カテゴリ: 試行錯誤の商売

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昭和34年

安定した収入を得たいと思いながら毎日を過ごす。【お前は、長男だ】という足かせが掛かっていて思うようにならない。友達は、ほとんど炭坑か東京方面へ出稼ぎにでて、仕送りをしている。このまま、田舎にいたら、稼げる金額はたかがしれている…。

しかし、生活のために稼がないとならない…。妹を高校にあげるための貯金をしなければならない。ぼくは、下駄作り、納豆売りのかたわら、高道追い(露天商)の仕事も続けていた。

露天商は同じ場所で3日連続商売する事が多い。宿泊代をうかせるために、商売先近くの親戚や知人宅に泊めてもらっていた。

高町追い(露天商)は、お祭り、運動会、盆おどり、ダルマ市、山開き等である。それらの日時の把握は同業者の情報交換で得るのである。
露天商での売上は、一日、千円~三千円位が普通で、少ない時は五百円程度の時もあった。五千円以上売れるのは、年に数回しかなかった。

昭和35年5月22日 
自転車にオモチャを積み、隣村の五十人山へいつもの通り、商売に出かける。

山麓から荷物を背負い頂上まで登る。商売を始めたが、売り上げは二千円程度であった。
夕方、商売を終え、荷物を背負って下山。自転車まで着き帰ろうとした時に、知らないチンピラ6人が因縁を付けて来た。と思ったら殴る蹴るの暴行を受け、売り上げを全て取られた。苦い経験をしてしまった。

昭和34年5月27日 

下駄作り、農家の手伝い、行商、朝の納豆売り、露天商のかたわら、夏場は、アイスキャンディー売りもしていた。

この日は、高柴山の山開き。天気もよくなりそうだったため、アイスキャンデーを300本仕入れた。の単価は1本5円。高い山の上なので10円で売るつもりで、1500円の収益をみこんでいた。

自転車で1時間かけて、大越町の登山道入り口まで行く。そこから300本つまったキャンデーボックスを背負って、山頂まで登るのだが、荷物の重荷が肩に食い込んでくる。

汗だくで山頂へ到着し、商売を始める。空模様がおかしくなってきた…。

商売を始めたのだが、200本売ったところで、気温が下がってきたため、100本売れ残ってしまった。
5円でも売れず、無料でも配ろうとしたが、もらう人もいなかった。持って帰っても溶けてしまうし、雨も降ってきた。そのため、残り全部を捨てて、山を下りた。


この日は、500円の収益にはなったのである。商売の難しさを感じた。

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昭和34年4月20日 

地主さんから、現在借りている土地を売っても良いと言う話があった。

家族で購入の有無を相談した結果、買いたいのは山々だが、経済的に厳しいので、泣く泣く断ることになった。

ぼくは、安定した生活と妹を高校へ進学させるため、長男としてもっと頑張らなくては…と思った。

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 昭和34年2月1日 
母が病気にかかり、郡山の病院に入院した。知り合いのみなさんが大勢見舞いに来てくれた。
この時期は、旧正月も近く毎日忙しい時期だった。そのため弟子の兄ちゃんが留守番や家の手伝いのため来てくれていた。昼間の暇な時期は、近くの青果店の食品の委託販売をさせてもらっており、行商も続けていた。

ぼくは、家業の合間に納豆売りを始めることにした。早朝、各家庭を回るのである。

小学六年生の妹も家庭が大変なのを悟ってなのか、ぼくと一緒に朝の納豆売りの手伝いを始めた。

昭和34年3月23日、妹が小学校を卒業し、4月4日中学校へ入学した。
母が妹の小学校卒業及び中学校入学式に出席するため病院から帰ってきたが、妹の中学校入学を喜び、嬉しそうに話をしていた。

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昭和33年

ぼくが露天商を行う行動範囲は、福島県田村郡内全域及び双葉郡川内村等であった。

川内村へは、一山を越えるのである。山頂までが急な坂道であり、峠を越えて高田島を経由して川内村へ行くのである。

露天商の荷物をいっぱい積んでいるので、登りの坂道になると自転車のハンドルに肩をかけて押しながら登るのだが、頂上までの所要時間は約1時間。自転車を引きながら歩いて登るので汗びっしょりで登っていた。

この時、同業者の先輩は、戦病者であった。片腕が無いのに、普通の人よりも早い。それを見て、「自分は健常者。負けてたまるか。」と思いのを我慢しながら負けまいと行動していた。

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