カテゴリ: 15才の父親代行

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昭和32年 15才
とにかく、家族を養い、生活費を稼がなければならないと思ったぼくは、毎日祖父や職人さんについて下駄の作り方を習い、一人前の下駄職人になりたいと頑張った。毎日の終業時間は、朝の6時頃から午後9時頃まで。下駄作りは全て手作業であって、職人が連日行っても1日10~15足位しか完成できない仕事であった。

《木材から下駄ができるまで…》
下駄の材料は、桐やぶな・朴の立木。まず、木を買って切り倒し、1間(1.8メートル)の長さに切ってリヤカーで自宅に運ぶ。

.ル(丸太のままで1尺「30センチ」の長さ)に切る。
▲淵燭膿燭鹵罎ら二つに割って、表面と両脇を荒削りする。こうら(下駄ができる原形の木)にして裏 側の皮を剥いで、原材料の出来あがり。
こうらは生木のために乾燥させる。日当たりの良い場所にイゲタ(交互に空気が入るように直径1.5メ ート程度の丸さにしてジグザグに3~4辰らいに積む。)に積み上げ、3~4ケ月程度乾燥させる。
ごチ腓靴燭海Δ蕕鮑拗場(下駄をつくる仕事場)で加工してもらう。
 ▼下駄の種類
  低下駄(駒下駄)、高下駄(下駄にほう羽を入れた雨天時用の下駄で高羽と中羽と二種類ある。)
舞子さんが履くようなポックリ)及び、冬は下駄スケート等も製造していた。
 ▼下駄の厚さ(駒下駄上部) 
  男物=5分・女物=4分5厘
 ▼木取りの厚さ
  ~般攫茲蝓2寸5分以上
  ∧厂攫茲
  男物 1寸8分以上・幅3寸8分以上
  女物 1寸5分以上・幅3寸以上      
ゴ粟した下駄にトノコを塗り、磨き上げ、これに鼻緒を付けて販売する。

この時代、どの家庭も経済的に厳しく、新しい下駄や着物は、お盆と正月のしか買ってもらえなかったため、お盆やお正月近くなると、こおり(藤ツルで編んだ長方形の衣類等の入れ物)に各種の下駄を詰めて、自転車で各集落の家庭を巡回して行商(出張販売)を行っていた。

昭和31年12月 
火災から約2年、待望の新しい我が家(店舗兼住宅)が完成した。新たに履物店を開店し、新生活が始まった。

火災以前は、魚屋の脇の路地を南側に入ると銭湯が営業されていて、市街地に住む殆どの方がこの銭湯を利用していたが、火災復興後には、復興住宅のほとんどが風呂場を備えられた。しかし、ぼくの家は借地面積が狭く、風呂場を造ることできなかった。そのため知り合いの家を代わる代わる回り、風呂に入れてもらっていた。

そして、ぼくは、新居に転居後間もない昭和32年3月23日常葉中学校を卒業した。「高校進学」の夢は、胸の中にしまい、すぐに家業の下駄職人への修行に入った。親方は、祖父であった。

また、ぼくが小学5年の時に父を亡くしている。そのため、隣組合の会合や町内で行われる冠婚葬祭への出席等行事の際は、中学を卒業したばかりのぼくが、父親の代わりとして出席していた。

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ぼくが小学校5年生、昭和28年8月11日に父は7年間の闘病生活を最後に須賀川の地において41歳でこの世を去ってしまった。
自宅において父の葬儀が営まれることに決まった。
火葬炉は石油バーナ式であり炉の裏側から親族が火をつけるのだと言われ、長男であるぼくが着火をしたが、「ぼくが火を付けると、父が燃えてしまう。」という状況は脳裏に鮮明に残っている。

また、父の恩給が早く該当するようにと、祖父が国に対して恩給交付申請をしていた。しかし、何度申請しても受理されないため国会議員の先生等にお願いしていた。
申請結果は、強制送還された時の病名と死亡した時の病名が違う。帰還してから6年以内に死亡したなら法律上該当するのだが、7年を経過しているため該当しないとのことである。

父は、戦争に従事して以来、怪我、強制送還、入院、死亡までの間、一日も家の仕事も出来ない状態のまま7年後に亡くなったのは事実であるが、戦争によって亡くなったことも事実である。7年目に死亡したら恩給がもらえないというのは、誰もが納得しないが、我慢するしかなかった…。

ぼくたち家族は、恩給がもらえなくて苦しい思いをした、【父は戦死】と確信し、寺の戦没者忠魂碑に父の名を刻み、戦没者として供養を続けている。

そして、母はその後も、恩給を該当させようと何年間も手続きを繰り返していた。ぼくはその姿を常に見ていたのである。近所の人達も

「お前の父ちゃんは間違いなく戦争がもとで亡くなったのに戦病死として認められないのはおかしい。」

と何人にも言われていたのであるが、6年で死ねば該当し、7年だから該当しないという法律の矛盾さを子供心に痛切に感じていた。

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父の話…
ぼくの父、丑三郎(うしさぶろう)は、太平洋戦争に招集され、海軍兵として戦地に赴いていた。
日本国海軍兵として船に乗り、戦地で公務に従事中、昭和17年7月25日に船のマストから転落して負傷したのである。
この時の怪我が治る見込みが無く、「職務を追行することは困難」と診断されて、日本へ強制送還させられたのである。

ぼくは、父の看病のため、毎週日曜日になると母に連れられて父の病院に通っていた。
田村郡から須賀川市の国立病院へ行くためには、定期路線バスで船引駅まで行き、船引駅から蒸気機関車に乗り、郡山駅へ、郡山から東北本線に乗り換え、須賀川駅で下車、病院まで、約30分歩かなければならなかった。

ぼくが生まれる前に戦争に行ってしまったため、生まれてから父が亡くなるまでの11年間の間において家庭や社会の中で父との触れ合った記憶は全くない。
記憶にあるのは、入院中の父の姿のみであり、ベットにてバイオリンを弾き、また刺繍をして家族に名入れの財布などを作くってくれたことだけである。

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