カテゴリ: 火事からの復興

昭和31年

祖父と母が家屋建築に対応しながら町の知り合いの家の一部を借り、仮店舗として履物店を開いた。

祖父は、下駄作り、母が建物建築など忙しいことから、ぼくは中学校の授業が終わると、クラブ活動を欠席して家に帰り、まっすぐに仮店舗に行き、店番を手伝うのが毎日の仕事になっていた。 
 
ぼくは、小さい頃から祖父に、

「おまえは長男だから、店の跡を継ぎ商人になるのだ。商人は高校教育なんかはいらないぞ。」

と何度も言われていたので、家の手伝いは当たり前、高校へはいかれないと脳裏に刻み込まれていたのである。
さらに、今回火災に遭ったことで、経済的に大変な状況をまのあたりに見ており、いつか言おうと思っていたが、「高校に行きたい。」などと言える状況では無くなってしまった。

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昭和31年

ぼくが住む家(下駄や店舗兼住宅)の建築に使う木材は、祖父所有の山にある松と杉を伐採して使用する。
それ以外の材料及び建築一切は、地元の大工さんに依頼した。その時の住宅建築費総額は19万9千円であった。


家を建てるのに約20万円、土地の敷金が15万円。この額を較すると、地主がぼくらに請求した金額がいかに大金だったかが想像ができる。


もちろん、お金のないぼくらは、借金をするしかない。
この当時にお金を借りるのには、抵当物件(不動産等)が無いと借りることができなかった時代であった。

そのため、建築する建物を抵当に入れ、金融公庫や銀行から借入れするのだが、それもなかなか難しく、母は大変な苦労をしていたのをぼくは、子供心に見ていた。

そして、働かなければ食べていかれないと思った。

昭和31年 

火災前のぼくの住まいは地元の地主の所有であったので、引続き借りたいとお願いしたが、賃貸料が払えないと見なされたのか、断られた。

そのため、僕らは、新たな土地を探していが、お金もなく、働き手のいないぼくらの家族では、見つからない。子ども2人と祖父を抱えた母は、大変苦労していた。
 
幸い、近くの土地の一部を借りることに決まったが、その条件が厳しいために、祖父と母は、大変悩んでいた。
土地を借りるための条件は、現金15万円を無利子で敷金として支払うことであった。悩んだ末、他に適当な土地が無いため、厳しい条件をのみ、契約期間15年で、土地賃貸契約を締結した。

火災で燃えてしまい、自己資金は全くない中、敷金15万円と自分の家を造る建設資金を調達しなければならないため、母は金策に悩んでいたのであった。

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火災からひと月

常葉町の大火を知った日本各地及びアメリカ合衆国から毎日のようにぼくの町に義援金や救援物資が寄せられた。

ぼくは毎日、中学校が終るとすぐ、役場から配給される救援物資を受け取りに行っていた。 何も残らなかった家族には、何でもありがたかった。

常葉町大火発生翌日、焼け跡にいるぼくの写真が新聞に載ったことで、岩瀬郡鏡石町の女学生が衣類等を送ってくれた。本当に助かった…。

火事から約1ケ月、祖父と母は住宅復旧準備にかけずり回っていた。ぼくは、何かできないかといつも考えていたが、配給をすこしでも多くもらいに行くことしかできなかった。

こうして中学3年生の父は、どうにか働かなければ食べて行かれない状態になりました。
(投稿者:娘)

父(ぼく):昭和17年3月14日生まれ
出生地  福島県
娘が知っている父の職業:地元の役所を退職し、現在アルバイト中

中3で働くことを余儀なくされた父が、どうやってお金を稼ぎ、どうやって妹を高校進学させ、
どうやって役所に勤め、家庭を築いたのか…。日記を読むと「えー!」「うそー!」「おもしろい。」
の連発。波瀾万丈な生涯を少しずつ更新していきます。
 
私の知っている父は、父の生涯のほんの少しなんだな…と思いました。

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