2007年08月

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昭和38年2月8日 

母が上京して来ると連絡があった。

この日は、仕事を終え、親戚宅へ行くと母が着いていた。川崎市から姉ちゃんも来ており、ビールをご馳走になり寮に帰った。

次の日の日曜日には、福島から持ってきたバイクのうしろに同僚を乗せ、初の東京遠距離ドライブに出かける。

行き先は、去年勤務した埼玉県上福岡市の電機工業。訪ねてみたが、当時ぼくが所属していた林組は、解散したとのこと。知り合いはもう誰もいなかった…。

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昭和38年2月1日

福島県の実家の町長選挙があるので、帰るようにと母から連絡が入る。

同じ町の友人共に夜行列車で帰宅、明朝7時頃家に着いた。

町内は町長選挙遊説運動で賑やかであった。

3日の町長選挙投票日に投票を済ませると、汽車では、次の日の仕事に間に合わないのと、買ったばかりのバイクに乗りたくて、バイクで東京に行くことに決める。

ぼくは、自分のバイクに乗り、東京に向かった。

この日は雪が降っており、チェーンを掛けて午前11時に自宅を出発。

すべて砂利道である国道4号をぼくは、マスクを掛けて走り東京に向かった。
出稼ぎ先の赤羽に着いたのは午後9時30分だった。

運転所要時間は8時間30分であった。
同じ姿勢での運転のため、腰や尻が痛く、直ぐには立って歩けない状態であった。

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東京に働きに来て初の日曜日になった。

朝9時に会社を出て、家から持って来たおみやげを下げ、電車にて川崎市に住んでいる親戚の姉ちゃんの家へ向かった。

田舎から嫁いだ姉ちゃんには、子どもができていた。
午後8時頃までいろいろな話をして、夕食をご馳走になり、会社の寮に戻った。

楽しい時間を過ごした。

昭和38年 1月30日

今回の出稼ぎでのぼくの仕事は、電車のカーテンレールのカバーを塗装するための下ごしらえである。
1日中レールカバーを紙ヤスリで磨く仕事であった。埃が出るので、防塵マスクを掛けていないと大変であった。

日当が1日600円と安かったが、三食付き住み込みなので、しょうがない。
そのため、毎日午後7時まで残業をした。残業手当は1時間50円。

1月30日は、初の給料日である。今月は10日間しか働かなかったので、給料は残業代を含め、6千200円であった。ぼくは、6,000円を仕送りした。

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昭和38年1月17日 

成人式が終わり間もなく、東京都北区赤羽に住む親戚が勤務する会社(蟯殃銅転車工場)に季節労働として働きにこないかと誘われる。

成人したし、定職をと考えていたが、なかなか難しいため、働きに出ることにする。やはり、祖父の出す条件は、前と同じ【月に1万円(およそ、サラリーマンの1ヶ月の給料分)を送る】ことである。

妹に荷物を持ってもらい、駅までバスで送ってもらう。

船引駅から列車にて上京、午後2時頃、赤羽の親戚宅に着いた。丸米自転車工場には、同じ町から来た者が3人と同級生がすでに就職しており、心強い。

この日は、送っておいた今日着くはずの布団が、夕方になっても届かないため、親戚の宅に泊めてもらう。いよいよ明日から仕事である。

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